伝言ではない光を伝えること──ライトワーカーとしてのリアル

ライトワーカーという言葉を耳にするようになって、久しくなりました。
「地球に光をもたらす存在」「癒しを届ける人」。
そんなイメージを抱く方も多いかもしれません。

私は、ふと思うのです。
その光は、本当に誰かを照らしているでしょうか?
それとも、誰かの言葉をただ繰り返しているだけなのかもしれない──と。


  1. ライトワーカーとは、どんな人?

人によって表現は違いますが、私の中では
「そこにいるだけで空気がやわらぐ人」。

大きな声で語らなくても、優しさがふわっと漂い、
正しさを盾にせず、人の話を深く聴き、
評価よりも共鳴を大切にしている。

特別な能力や知識よりも、
“在り方”そのものが柔らかく光を放っている。
そんな人を見ると、ああ、この人は光を持っているな、と感じます。

けれどその一方で、
“ライトワーカー”という言葉が肩書きのようになったり、「教える人」や「癒す人」としての役割を過剰に背負いすぎる場面も、少なくありません。


  1. 本来の光を保ちづらい現実

ライトワーカーとして生きることは、実はとても地味で根気のいる営みです。

日常の中で、
「優しさを選ぶこと」
「自分の感情を受けとめること」
「誰かをジャッジしないこと」
そうした小さな選択を、ただ静かに積み重ねていくこと。

ときには、自分の遊び心やユーモアを表現しただけで、
「ふざけてる」「意識が低い」と攻撃されることもあります。

まじめにやればやるほど、どこか窮屈になる。
光を届けたいと思っているはずなのに、
いつのまにか、自分の中の光が少しずつ濁っていく。

そんなジレンマを感じたことのある人も、きっと少なくないはずです。


  1. 窮地でこそ問われる、“光”の本質

私は、穏やかで優しい人が本当に光を放つのは、
むしろ「人生の窮地」に立たされたときだと思っています。

傷ついたとき、誤解されたとき、ひとりで暗い場所に立たされたとき。
そのときでも、人を責めず、
自分の内側に光のかけらを見つけようとする人。

たとえ揺れたとしても、
誰かのせいにせず、自分に問いを返す姿。

そういう人に出会うと、私は心の奥で静かに震えます。
「ああ、こんな人が光を生きている人なんだろうな」と。

だから私は、
「ひとりでも静かに光を保てる人」に、強さを感じます。

孤立を恐れず、自分という魂に深くつながって生きている人。
その背中から、言葉にならない光が伝わってくるのです


  1. 伝言ゲームでは終わらせたくない

スピリチュアルな世界には、美しい言葉がたくさんあります。
「波動」「統合」「使命」「愛と光」……。
それ自体に意味はありますが、ときにそれらは、“誰かの借りた言葉”になりやすい。

でも、本当の光は、
他人の言葉をなぞることでは伝わらない。
自分の実感、自分の体験、自分の痛みと出会いながら、
言葉が“魂からの祈り”になったときに、初めて人に届くものだと思うのです。

私は神でも導く者でもありません。
けれど、自分の奥に触れながら感じたことなら、
誰かと「分かち合う」ことはできると信じています。


  1. 先生と呼ばれるということ

それと似たようなことを、「先生」と呼ばれる人にも感じます。

本人が望んでいなくても、周りがその人の“立場”や“役割”を強調し続けることで、
知らないうちに「自分はこうあるべきだ」という無意識のイメージが出来てしまう。

“導く者としてのイメージ”が強くなるほど、
素の魂に戻る時間を持ちづらくなるのかもしれません。

私が思う光とは、人間らしさではなく、魂の本来の響きに戻ることです。
社会的な立場や理想像を脱ぎ捨て、
静かな場所で、自分という魂の音を聴きなおすこと。

そこにこそ、表現を超えた光が生まれる。
それは誰かを救おうとする力ではなく、ただ自然ににじみ出る“在り方”として、
まわりの人にそっと伝わっていくのだと思います。


おわりに 〜光を生きるということ〜

ライトワーカーとは、特別な存在ではありません。
むしろ、“ありのままの自分”を生きることで、周囲に安心や調和を広げていく人。

誰かを導かなくても、
大きなことを成し遂げなくても、
魂に還っていく姿そのものが、すでに光です。

だから私はこれからも、自分の内側から生まれてくる言葉を、少しずつ分かち合っていきたいと思います。


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