ライトワーカーという言葉を耳にするようになって、久しくなりました。
「地球に光をもたらす存在」「癒しを届ける人」。
そんなイメージを抱く方も多いかもしれません。
私は、ふと思うのです。
その光は、本当に誰かを照らしているでしょうか?
それとも、誰かの言葉をただ繰り返しているだけなのかもしれない──と。
- ライトワーカーとは、どんな人?
人によって表現は違いますが、私の中では
「そこにいるだけで空気がやわらぐ人」。
大きな声で語らなくても、優しさがふわっと漂い、
正しさを盾にせず、人の話を深く聴き、
評価よりも共鳴を大切にしている。
特別な能力や知識よりも、
“在り方”そのものが柔らかく光を放っている。
そんな人を見ると、ああ、この人は光を持っているな、と感じます。
けれどその一方で、
“ライトワーカー”という言葉が肩書きのようになったり、「教える人」や「癒す人」としての役割を過剰に背負いすぎる場面も、少なくありません。
- 本来の光を保ちづらい現実
ライトワーカーとして生きることは、実はとても地味で根気のいる営みです。
日常の中で、
「優しさを選ぶこと」
「自分の感情を受けとめること」
「誰かをジャッジしないこと」
そうした小さな選択を、ただ静かに積み重ねていくこと。
ときには、自分の遊び心やユーモアを表現しただけで、
「ふざけてる」「意識が低い」と攻撃されることもあります。
まじめにやればやるほど、どこか窮屈になる。
光を届けたいと思っているはずなのに、
いつのまにか、自分の中の光が少しずつ濁っていく。
そんなジレンマを感じたことのある人も、きっと少なくないはずです。
- 窮地でこそ問われる、“光”の本質
私は、穏やかで優しい人が本当に光を放つのは、
むしろ「人生の窮地」に立たされたときだと思っています。
傷ついたとき、誤解されたとき、ひとりで暗い場所に立たされたとき。
そのときでも、人を責めず、
自分の内側に光のかけらを見つけようとする人。
たとえ揺れたとしても、
誰かのせいにせず、自分に問いを返す姿。
そういう人に出会うと、私は心の奥で静かに震えます。
「ああ、こんな人が光を生きている人なんだろうな」と。
だから私は、
「ひとりでも静かに光を保てる人」に、強さを感じます。
孤立を恐れず、自分という魂に深くつながって生きている人。
その背中から、言葉にならない光が伝わってくるのです
- 伝言ゲームでは終わらせたくない
スピリチュアルな世界には、美しい言葉がたくさんあります。
「波動」「統合」「使命」「愛と光」……。
それ自体に意味はありますが、ときにそれらは、“誰かの借りた言葉”になりやすい。
でも、本当の光は、
他人の言葉をなぞることでは伝わらない。
自分の実感、自分の体験、自分の痛みと出会いながら、
言葉が“魂からの祈り”になったときに、初めて人に届くものだと思うのです。
私は神でも導く者でもありません。
けれど、自分の奥に触れながら感じたことなら、
誰かと「分かち合う」ことはできると信じています。
- 先生と呼ばれるということ
それと似たようなことを、「先生」と呼ばれる人にも感じます。
本人が望んでいなくても、周りがその人の“立場”や“役割”を強調し続けることで、
知らないうちに「自分はこうあるべきだ」という無意識のイメージが出来てしまう。
“導く者としてのイメージ”が強くなるほど、
素の魂に戻る時間を持ちづらくなるのかもしれません。
私が思う光とは、人間らしさではなく、魂の本来の響きに戻ることです。
社会的な立場や理想像を脱ぎ捨て、
静かな場所で、自分という魂の音を聴きなおすこと。
そこにこそ、表現を超えた光が生まれる。
それは誰かを救おうとする力ではなく、ただ自然ににじみ出る“在り方”として、
まわりの人にそっと伝わっていくのだと思います。
おわりに 〜光を生きるということ〜
ライトワーカーとは、特別な存在ではありません。
むしろ、“ありのままの自分”を生きることで、周囲に安心や調和を広げていく人。
誰かを導かなくても、
大きなことを成し遂げなくても、
魂に還っていく姿そのものが、すでに光です。
だから私はこれからも、自分の内側から生まれてくる言葉を、少しずつ分かち合っていきたいと思います。
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