小さな頃の記憶
まだ幼かった頃、ある日、店先に並ぶ鶏の丸焼きを見て、私は泣きました。
それが「命」だということが、何の説明もなく、直感的にわかったからかもしれません。
両親が「可愛そうだと思ってるんだわ。」と話していました。
けれどそのすぐあと、家族とそのお店に入り、何事もなかったかのように食事をしました。
そのお店を出た後に、両親が「入る前は泣いてたけど結局ケロッと食べたね。」と話していたのも覚えています。
あのときの涙と、あのときの食事。
どちらも本当で、どちらも大切な記憶です。
けれど、その小さな矛盾は、心の奥でずっと忘れられずに残っていました。
その感覚こそが、今の「ベジタリアンになりたい」という思いの、
いちばん最初の、やわらかい種だったのかもしれません。
日々の食事の中で、いつも通りにお肉やお魚を食べていたし、家族と同じものをいただくことが当たり前でした。
けれど、なんとなくずっと心のどこかにあったんです。
「私はどんなものを食べて、どんなふうに生きていきたいんだろう?」と。
最近は、そんな自分の心の声に、少しずつ耳を傾けるようになってきました。
食べることを通して、自分のあり方を見つめ直す。
そんな日々の中で感じたことや気づいたことを綴ってみたいと思います。
- 「いただきます」に込められた思い
日本の食卓で欠かせない「いただきます」という言葉。
これは「命をいただく」という意味があると、幼い頃から何度も聞いてきました。
これまで私は、お肉やお魚をたくさん食べてきました。
食べ物の背後にある「命」を受け取って生きてきたことに、今は素直に感謝しています。
そしてふと思うのです。
もし自給自足で暮らすとしたら、どんなものを食べて生きていくだろう?
この問いは、単なる食の好みを超え、
「どんな命とどんな関わり方をして生きていきたいのか」という深い問いでもあります。
- 少しずつ手放してきた動物性食品
昔からお肉を食べることには少し抵抗がありましたが、家族の食卓では食べてきました。
大人になり、自分で選ぶようになると、自然とお肉や卵、そしてお魚も控えるようになってきました。
これは「やめよう」と決めたのではなく、身体や心が静かに選択した結果。
無理をせず、自然な流れで動物性食品を減らしていったのです。
- ローフードとの出会いと体の変化
最近はローフード(生の食べ物)に興味を持つようになりました。
加熱しない食事は消化が良く、身体が軽く感じられます。
特に果物は、肌の調子まで良くなった気がして、嬉しい驚きです。
ローフードは単に「生」であること以上に、
「自分の体が何を求めているか」に気づかせてくれる食べ方だと感じています。
- ベジタリアンになるための段階的な歩み
「ベジタリアンになりたい」と思っても、急にすべてを変えるのは難しい。
私自身、段階を踏むことで身体になじみやすいと感じています。
急がず、無理なく、心地よさを感じながら少しずつ取り入れることが続けるコツ。
日々の小さな選択が、自分らしい菜食生活へとつながっていくようです。
- ミキサーが広げてくれた食の世界
ミキサーは私の食生活に革命をもたらしました。
グリーンスムージーやナッツミルク、ローフードのドレッシングなど、
おいしくて簡単に栄養を摂れるメニューが増えたのです。
調理の手間が減り、消化にも優しいため、忙しい日でも続けやすい。
ミキサーは食と心をつなぐ架け橋になりました。
- 野菜も果物も、生きている命
野菜も果物も生き物の一部で、特に果物は木が作り出した結晶で
「動物が食べられるように差し出している」と感じることがあります。
果物の甘さや香り、色は自然が与えてくれた贈り物。
動物たちが食べて種を運び、新たな命が芽吹く自然の循環の中にあります。
食べることは、自然とのやさしい共生の一部で
私の行き着く先には、果物があるのだろうと思っています。
- 今の私が選んでいること
完璧なベジタリアンではなく、揺らぎや迷いがあっても、自分の感覚に正直でいること。
今日の自分にとって心地よい食べ方を選び続けることが、
私らしいゆるやかな菜食の道だと信じています。
食べることは、命をいただき、自分の生き方を映し出すことなのでしょう。
これからも自分の体と心に耳を傾け、自然につながるやさしい食生活を続けていきたいです。
コメントを残す