スピリチュアルな成長と「エゴの解放」

「エゴの死」という言葉は、スピリチュアルな世界でよく使われる表現です。
「エゴが消え去ったとき、魂は真に成長する」——多くの人がそう信じてきました。

けれど私は、この言葉にどこか引っかかりを感じていました。
エゴとは、本来わたしという存在の輪郭であり、消すべきものではないと感じていたからです。

むしろ、「エゴを消滅させなければ」と、我慢していたものを手放し
「エゴ解放する」という視点で見つめ直したとき、
自分自身との関係が、自然にほどけていきました。


  1. エゴとは何か?〜悪ではなく、わたしの輪郭〜

私たちは「エゴ」という言葉を、しばしばネガティブな意味で捉えがちです。
エゴとは、私たちが「わたし」という存在を認識するための意識の輪郭のようなもの。
自分が誰で、何を感じ、どう動くのかを形づくる土台です。

自己主張や個性、好き嫌い、感情の動きすべてがエゴの表れ。
それは決して悪いものではなく、生きている自己そのものです。

ただ、エゴが恐れや執着に縛られると、次第に自らを小さく縮こまらせ、自己表現から遠ざかっていきます。

だからこそ、エゴは「抑圧」から「自由」へとシフトし、やわらかくなる必要があるのです。
この変化こそが、「エゴの解放」のはじまりです。


  1. 解放のプロセス〜限界から始まる気づき

かつての私は、「自己犠牲」や「我慢こそが成長への道」だと信じていました。
スピリチュアルな理想を抱き、自分の感情や望みを抑えて、ただただ努力し続けていたのです。

でも、心だけではなく、身体も限界を迎えました。
深い疲労の末、鬱のような状態になり、心も身体も動かなくなったのです。

多くの人は、こうした状態を「エゴの死」と呼ぶのかもしれません。
でも私は思います。「エゴの死」という言葉が、必要以上に人を追い込み、
限界のそのものへ向かわせてしまってはいないかと。

そこから私は、「耐えることをやめる」という選択をしました。
自分の声を聴き、その考えを選ぶことを少しずつ重ねていく中で、
ようやく、「本当のわたし」に還っていくプロセスがはじまったのです。


  1. 学びほぐす(unlearn)〜COBRAの言葉から

COBRAの言葉に「私たちはこれまで学んできた多くのことを学びほぐす(unlearn)必要がある」という表現があります。

多くの人は、自分の心から湧く望みを叶えていいとは思っていません。
ソース(宇宙の根源)と繋がろうとする人ほど自分の願いを慎重に見極め、
その願いがエゴの恐れや執着から来ているのか、
魂の自然な喜びや使命から来ているのかを判断しようとします。

「魂の成長には苦しみが伴う」といった観念が馴染んでいると
そこで「エゴを消滅させる」ことを試みエゴはさらに小さく陰をひそめて
自己表現することからさらに遠ざかります。

「学びほぐす」とは、思い込みを解きほぐし、魂に調和していくための大切なプロセスで、我慢というブレーキを外し自分の内側の声に寄り添いながら進む、解放の道です。


  1. エゴの解放とは、わたしがわたしに還ること

「こんなことを思ってはいけない」
「こんな願いはエゴだ」

そんな風に自分の内側から湧く思いを否定するたびに、「自分の望みを信頼してはいけないよ」と自分に言い聞かせることになります。

「エゴを捨てる」という聞き慣れた表現が、
自己表現や自尊心までも手放させようとしていないか、
今一度見つめ直したいと思うのです。

よく耳にする「自信満々」「自己中心」「自己満足」といった言葉も、
本来のエゴの健やかな確立を、どこか否定的に扱っているように思います。

一方で、
「承認欲求」、「依存」は良くないことで、
自立を肯定するものですが
自己を否定しながら自分を確立する
という矛盾に追い込まれます。

「エゴの解放」は言うならば、自分の中にあるさまざまな感情や思いをそのまま受け入れ、
進みたい方向を見極め小さくても大きくても何らかの行動を毎日、毎日とっていくことです。

「キリストは十字架に架かる必要はなかった」という言葉を思い出します。

成長や目覚めは、苦しみの中だけでなく、
やさしさ、尊重、そして自分への愛の中にも、
静かに、確かに育まれていくのだと思います。

私たちは完璧である必要はなく、
そのままの自分で十分に美しいのです。自分が美しいと思うときに自分以外の人の美しさを否定するものはありません。

エゴに耳を傾けることが魂そしてソースとの調和であったとしたらどうでしょう?

本当の癒しは、エゴの声に耳を傾け、共に歩むことにあるのかもしれません。


  1. 変化は自然なこと 〜言葉の変化から見える世界〜

「自分を変えるのは難しい」「社会を変えるのは無理」
そう思うこともあるかもしれません。

でも、私たちの暮らしも言葉も、ゆっくりと、けれど確実に変わってきました。

たとえば、「食べれる」「来れる」といった“ら抜き言葉”。
かつては「間違い」とされたこれらの表現も、今では自然に日常に溶け込んでいます。

言葉は時代と共に変化し、
人々の感覚や暮らしに合わせて進化していきます。

言語学者ジャン・エティエンヌ・ミナールによれば、
新しい表現が定着するには、社会の2〜3割の人が使い始めることが一つの転換点になるといいます。

このように、変化とは「特別な誰か」が起こすのではなく、
日々の選択が少しずつ積み重なった結果なのです。

エゴを確認しながら行動し、
それに呼応するように起きるシンクロニシティを体験するとき、私たちはひとりではないことを知ることができます。そしてこれは限られた人に起きることではありません。


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