人は気分が落ち込んでいるときに自分なりに気分を良くしようと自然にするものだと思う
美味しいと感じるものを食べたり、映像を見たり、文章を読んだり、買い物をしたり、自然に触れたり、動物と触れ合ったりと自分に何かを取り込んだり
運動したり、絵を描いたり、文章を書いたり、料理をしたり、何かを自分の内側から表現したりする
以前は本屋に行って月に何冊か読みたい本を買うのが一番高揚感が長く続く楽しみだった
精神世界のコーナーがあるお気に入りの本屋に行って1~2週間かけて読む本を選んで買い、帰りにカフェでお茶を楽しんだら最高の日になったものだ
精神世界について知ることは、日常を楽しく過ごすために私にとっては欠かせなくなった
そもそも精神世界はシャーリー・マクレーンをきっかけに知った
彼女がでている映画が好きだったし、本を書いていると知って読んだら瞑想のこと、チャクラのこと、それを彼女の人生でどのように取り入れているかを垣間見れた
私が誰かに惹かれるときは、その人の仕事とプライベートでの考えに一貫性があるときだ
例えば自然食品のお店を経営していたら、プライベートでもお店で販売しているものを食べているとか、ヨガを教えていたら自分も他の人からさらに奥深いヨガを教わっているとか
そんな人たちが提供しているものに安心感を覚える
精神世界というと見えない世界のことで、死んだ後の世界についてもよく描かれているから、どちらかというと非現実的という考えを持つ人が多いと思う
それでも結婚式、葬式などは精神世界をもとにやっていると思うし、誰もが触れている世界だ
今でも精神世界についての情報を取り入れるのはとても楽しみで、SNSもよく見る
誰にでも好みはあるから、この人の投稿はすごいなとか、ためになるなとか思うものはたくさんあるのだけれど、どんなにいいな!と思う投稿でも「エゴ」という言葉がでてくると胸が苦しくなるようで
エゴという言葉にすっかり抵抗感を持ってしまった
たいていの場合、自分以外の人の頑固に保っている考えの置き換えのように使われていると感じる
エゴを手放す、エゴの死滅などという表現を聞くと私のエゴがうずくのだ
そしてなぜ自分が信じていることを殺さないといけないのだろうか?と思う
エゴの意味を調べてみると、心理学や哲学では「自己」「自我」で、日常的には過剰な自己や自我として使われることがあるとわかる
自分のたましいの目的に沿って生きることが人生の醍醐味であるとして
どこまでが自分のたましいの目的で、どこからがネガティブな自分のエゴなのだろう?といつも思う
そして太陽と北風の話を思い出すのだ
ほとんど人はエゴを手放すようにと言われたら、北風のように感じるものではないのだろうか?喜んで手放す人もいるのだろうか?
「エゴがあなたを苦しめている」というようなメッセージを頻繁に目にしたとき、私はネガティブな自分のエゴも絶対に抱きしめたいと思ったものだ
エゴを殺したりしたくない、エゴの「解放」なら受け入れられるな
そんなことを考えていた
自分を勇気づけてくれるものだけでいい
自分を拡大させてくれるものだけでいい
そう思っていつも私はメッセージを探す
探求が終わったものは自然に手放すことになると私は信じている
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